2016年08月11日

ドイツ、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州のブラッヒェで講習会

7月31日から8月8日まで、ドイツ、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州のブラッヒェで開かれた講習会に講師として招かれ、連日レッスンに明け暮れてきました。
日課は結構ハードなもので、午前中は9−13時がレッスン。昼食を挟んで14−16時がコンサートのリハーサル立ち会い。16−19時レッスン。19時からコンサート。21時夕食。22時からホールリハーサル立ち会いかレッスン。やっと就寝できるのは12時のこと。
コンサートは週の前半が講師陣によるもので、最後の3日間が選ばれた受講生によるものです。私も8月2日にリサイタルを行ってきましたが、講師陣もコンサートを行いますから、緊張感が漲り、この上なく充実した日々。ですが、土曜日の午前中だけお休みの日で、皆で一緒になって土曜市に出かけ、羽を伸ばしてきました。

レッスンは参加者のモチベーションがいおかげで実に活気にあふれています。質問もドンドン飛出し、和気藹々とした雰囲気の中で、受講生が助け合いながら一丸となって学ぶ8日間。私も多くの刺激を受けて帰ってきました。
曲によって違う響きを出すにはどうすれば良いのか?これには多くの問題がつきまとっています。
指、手、肘、肩の使いかたのみならず身体全体の使いかたが大切になってきますが、しかし、何と言ってもまず大切なのは、どういう音を出したいかをいかに強烈に想像すること。最終的にはこれに全てがかかっているといってもいいでしょう。それは頭による理解を遥かに凌駕した領域のものであり、生徒たちには言葉での説明のみならず音で示すのが一番の近道。結局一日中弾き続けた講習会でした。
私のレッスン風景が写真入りで新聞にも掲載されています。
http://www.kn-online.de/News/Nachrichten-aus-Ploen/Musik-aus-aller-Welt-in-Wahlstorf-Meisterkurse-in-Wielen

最終日の最後の1時間は質疑応答。作品に応じた響きの学び方について質問が多く飛び出しました。
Brache 2016.jpg

歴史的建物で行われた受講生コンサートの始まる前、まるで家族同然のようになった生徒たちと撮った写真です。
Brache 2016 Ploen.jpg

来年の再会を約束して別れた寒い夏の講習会でした。
posted by 英代&フレンズ at 08:46| 日記

2016年01月12日

ヴァン・クライバーンの悲劇

ヴァン・クライバーンが弾き振りした動画がある。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番だ。ソロパートを弾くだけでも困難なこの曲を指揮までしている。とにかく、凄い!
「プロコフィエフの抒情性は余り知られていなくて残念だ...」とメルジャーノフ教授はよく呟いていらしたものだが、この演奏ではまさにその抒情性をもつプロコフィエフの深遠な精神性が描かれている。
プロコフィエフはソ連の作曲家だが、チャイコフスキーやラフマニノフを否定せず、19世紀のロシアを受け継いで20世紀の音楽を創った人だったことを忘れてはなるまい。

クライバーンの演奏を特徴づけているのは、何と言ってもその語り口と、千差万別な音の色彩。音色に敏感な人はえも言われない気分になる。このような音は演奏者の内面からの音楽の体験あって初めて実現する。ある心情世界を音で表現するには、細かい音一つ一つがその心情で満たされている必要があると私は思っているが、彼の演奏する音は、たとえ16分音符であってもその一つ一つにさまざまな音色があって、そのお蔭で摩訶不思議な心情を描くことに成功している。まさにジョルジュ・スーラやクロード・モネの点描画さながらだ。

2013年2月27日、クライバーンが亡くなったとき、フランクフルト・アルゲマイネ新聞に、”彼の冷ややかなヴィルトゥオーゾで聴衆を魅了”という見出しでコラムが掲載された。1958年冷戦時代にモスクワのチャイコフスキーコンクールで優勝したアメリカ人と紹介した後で、辛辣な批判が始まった。それは実にお粗末なものだった。
彼の演奏は「華麗な外見の裏に、空っぽな箇所が多く、無分別な音色の断片、作品の精神性の欠如...」
一体、誰の演奏を批評したものなのかと目を疑う。これを書いたのは、まず法学を学び、それから音楽学を学んだドイツ人だ。しかし、こういった意見はこのドイツ人一人のものではない。世界にまたがっていたのだ。人それぞれ自分の意見を持つことは大事なことだが、我々音楽家はいつもこうした批評家に翻弄されずに生きていく勇気を持たなければならないとつくづく思う。

国民性や民族性が演奏や演奏の好みに反映されるとことは拒否できない以上、当然、音楽の解釈は違ってくる。そのとき、静かに音楽に向き合い、どこまで自分に正直でいられるか。
クライバーンは演奏活動から退いた。彼は自分であることの危険を目の当たりにしたのだろう。彼の演奏の素晴らしさは言葉で説明不可能なところにある。形式や調性は説明できるが、形式感や調性感を表すには演奏における別な要素が必要だ。彼はそういったものを響きという言い表し難いエレメントで表現することに秀でていた。こういった演奏スタイルの頂点を成すのがロシアだ。結局、彼が彼自身でいられるのはロシアにおいてだけだった。その他の国は、彼を理解できなかったのだ。非難され、不名誉に甘んじながら演奏活動を続けることは至難の業だ。何かの助けがない限り、耐えられるものではない。彼の助けは東西の厚い壁の向こうに在り、彼はソ連を制覇した西側の人間として世界を巡業しなければならなかった。彼を理解していたのは、その敵国だけだったと言うのに。
彼はエゴイストでなかったために妥協しなかった。愛する音楽を裏切ることはできなかったのだ。こうして、ヴァン・クライバーンは生きたまま伝説の人となった。

彼の心に宿った清らかな魂は、音楽から溢れ出て、愛を求めるロシア人たちを狂喜させた。欲とは無縁のモスクワでの勝利は、たとえなんと批判されようとも永遠に輝く偉業であった。

posted by 英代&フレンズ at 21:48| 日記

2015年06月24日

芸術に欠かせないものとは?

ロシアと緊張状態にあるウクライナでコンサートを行うプレトニョフのインタビューが、ネット上で公開されています。その中には実に興味深い話が次々と出てきますが、特に心に響いたことは、芸術に欠かせない三つの要素でした。

@勇気 
A奥深さ 
Bフォーム

新しい試みをするには勇気が要ります。このとき、新しい試みは中身の空っぽな単なる奇天烈なものを狙ったものでは困ります。そして、そういったものを芸術として成り立たせるにはフォームが大切。

目下、チャイコフスキー国際コンクールが配信されていますが、今回、全く新しい解釈を呈示している人がいます。彼の演奏は、そのまま映像を浮かび上がらせ、彼の演奏における構築性は文学から発しているのではないかと思わせます。私は彼の演奏に魅了され、毎朝、起きぬけに彼の演奏を聴いていますが、これこそまさにこの三つが揃った結果でしょう。
さて、どのようなコンチェルトを聴かせてくれるのか?今日も楽しみにしています。
posted by 英代&フレンズ at 20:32| 日記