2015年01月12日

第三者的な意識

1990年ソ連から亡命してきた義母はボーデン湖のほとりにあるシュタイナーの学校でロシア語を教えていました。「ロシア語は最も霊的な言語である」というシュタイナーの考えを取り入れて、この学校ではロシア語が科目に入っています。
その関係で、我が家には亡くなった義母のシュタイナー蔵書が沢山残っています。その中にポピュラーな「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」という本があります。そこには内的平静を獲得するための訓練が書かれている項がありますが、「自分の経験や行動を、自分のではなく他人の経験や行動であるかのように見做す」(ちくま文芸文庫p.40)という言葉が出てきます。
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演奏が聴く人々の心に訴えかけることは必要不可欠ですが、では演奏者はどのようにしなければならないか、というと感情に浸って弾けばよいというものではありません。かと言って、魂が感動したことのない人間には感動を伝える演奏は出来ない。この兼ね合いは実に複雑です。
感動が単なる感情の伝達ではなく、魂に訴えかけるものになるためには、演奏者が忍耐強く魂を磨き上げる必要があります。モスクワ音楽院音楽理論科のメドゥシェフスキー教授は仰いました。
「精神的世界にある本当の真実性を感じることは、空想し、夢見ることとは正反対です。」
チャイコフスキーがメック夫人の「音楽は心を酔わせるシャンパンだ」という意見に真っ向から反発したのと同じことです。

シュタイナーの忠告に従って、演奏中、演奏している自分を第三者的に見て、その自分が何かを感じるというように第三者的に観察していると興味深い感覚が生じます。そのとき、アントン・ルビンシュテインがトルストイに語った言葉を思い出します。
「コンサートのおりに自分自身が興奮してしまうと、そういうときの私の演奏は聴衆には伝わらないんだ。」

内的平静とは物質的になることではありません。全く逆のことです。内的平静を獲得すると、心の感じるものが自己陶酔でなく普遍的なものになり、うつろいやすいものが永遠性へと変貌を遂げるのでしょう。空想や夢という無気力の世界ではない精神世界を映し出す演奏、そこに向かって長い旅をしています。
posted by 英代&フレンズ at 18:53| シュタイナー